ううむ
なんか、「戦ってる」というか、「哲学している」というか、「探している」というか、「求めている」という強い感じありますよなぁ
「アナログ時代」に「写真」を撮る…ってのは、やっぱり今とは完全に違ったなぁ〜
んで
話を戻します
そんな「時代」と「アナログ」を踏まえた上で、「写真」を味わうと、より、その素晴らしさが浮き彫りになる…と思うわけであります
さて
で、改めて
知り合いの方にいただいた幾枚かの「写真」を鑑賞したい…と思います
カシアス・クレイ
と
モハメド・アリ
…だと考えているわけなんですが
みなさまご存知の通り、「カシアス・クレイ」と「モハメド・アリ」は同一人物であります
けど
その「改名」の意味はあまりに深く、悲愴なる「覚悟と決意」が秘められているわけであります
その真偽は諸説あるようですが、Wikiから引用させていただけば…
> (ローマ五輪の)金メダルを首から下げ白人が経営するレストランに入店しチーズバーガーを注文したところ、ウェイトレスから「たとえ"カシアス・クレイ"であろうと、黒人に食事は提供しない」と言われたため、「アメリカを代表して金メダルを取っても黒人差別を受けるのならば、この金メダルには何の価値もない」と考えたアリは金メダルを自らオハイオ川に投げ捨てる事件を起こした
とあり、さらに…
> プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリ(ムハンマド・アリー)に改めた
…とある
あのさ
もしかして
1枚目の写真がアマチュア時代で、2枚目の写真がプロ転向後…じゃなかったら申し訳ないんだけど
僕はこの2枚の写真を並べながら、そうなんじゃないかなぁ、と感じながら見つめたんだ
「柔らかい眼光」のカシアス・クレイ と「厳しい眼光」のモハメド・アリ の、その『間』にあるもの…にぐっと来たわけ
まさしく
悲愴なる「覚悟と決意」が、この2枚の写真の『間』にあって、これこそが…
「ザ・グレイテストの生き様」
であり、今なお、世界中の人々から愛される理由なのだ
さらに
モハメド・アリは徴兵招集を拒否し、貴重なるボクサーとしての全盛期の一部を奪われてもいるわけですな
…と、そんなことを考えながら鑑賞すると、さらに胸に「熱いもの」が去来してくる
そして
「私とは何者なのか」
あるいは
「私は私にとって、どういう私でありたいのか⁇」
…という「アリの声」が聞こえてくるような気がしてくる
やはり
スマホの画面に写る画像とは違う
印画紙に焼かれた「写真」じゃないと、ここまで込み上げてこない…と感じたわけです
いまや動く映像もデジタルになって久しいけど、なんか昔のフィルムルックというか、肌触りが恋しくなる…って感覚がかなりありますなぁ
ただ、懐かしい…っていうか
「写真」にしても「映画」にしても、昔はシャッターを「切る」っ意味の重さがかなり違っていたように思う
すぐに消したり、すぐに撮り直したり、後で加工したり出来なかったわけで、もうさ、「瞬間」に対する「気合と想い」が今とは全く違っていた…と感じちゃう
こんなこと書くとプロのキャメラマンに「瞬間」との向き合い方に違いはない…と怒られちゃうかもしれないけど
やっぱりさ
昔のアナログカメラで試行錯誤した記憶あるものとしてはさ、そういう感覚あるんだ
メチャクチャ撮影失敗してさ、貴重なお小遣いをいくら無駄にしたか知れないしさ
(^^;;
さて
改めまして
素晴らしい「写真」をわけて頂き、本当にありがとうございます
ずーっとずーっと大切な「宝物」にさせていただきます‼︎
御愛読感謝